giappllo’s blog

主張なき雑文を浅き考えのままに

図書館

市外の駅前にある図書館に30分ほどかけて行き、90分ほど滞在し、駅前のロータリーで30分くらいぼんやりしていた。

 

勉強しに行ったのか、運転しに行ったのか。目的はどちらなのか。わからない時点で褒められたことではないのだと思う。

 

図書館ではまた未知の言語の本を借りてきてしまった。目についただけで借りてしまったが、少しは身につくだろうか。

学んだことの備忘録でも作ろうかと考えてしまう。

 

 

備忘録をやるかもしれないという段階で作ってしまった

https://mngiappllo.hatenablog.com/

年齢

令和元年度も終わりになろうかという今週、浪人していない同級生たちは袴や内定のために汗を染み込ませ続けたであろう喪服の如きそれとは違う、おろしたてのようなスーツを身につけ笑顔でカメラの前に立っていた。

 

気がつけばそんな年齢になっていたのだ。一番若い祖母ももうすぐ80だと嘆いていた。ふと昔の写真を見るとまだ幼稚園にも入っていない私を50代の頃の祖母が抱えていた。

 

人生が動きかねない世代に突入しそうになり、得体の知れない気持ち悪さが襲ってくる。この気持ち悪さは何か、モラトリアムにしがみつきたい言い訳?断固として違う、といいたいものだ。

言語化

間隔をあけたことへの反省というわけではないが、連続して記事を書いている。タイトル通り言語化について書いてみたい。

 

「あなたは考えていることの言語化がまだまだできていないようです」

こんなことを私がまだ就活を院進と並行で考えていた時に言われた。そんな時にああそうですか、みたいなことしか咄嗟に思えなかったあたり、確かに才能がないのかもしれない。だから今から書くことは、言語化ができるような人からしたらただの負け惜しみかもしれない。こんな風に考えを述べる前に保険をかけようとする自分への嫌気を抑えつつ、原因を探りたい。

 

おそらく言語化できない理由の一つは考えの抽象性にあると思う。考えが抽象的なうちに話すから具体的な言葉となって出てこない。じゃあ具体化すればいいじゃん、と一蹴されそうだが、簡単にはできない。具体化したならば、考えと出てくる言葉が安っぽくなりそうで恐ろしいのだ。安く見られそうなのが嫌だとはなんともつまらないものであった。

 

もしかしたら私は、抽象的な考えを、抽象的なまま受け取ってくれることを期待しているのかもしれない。しかもその抽象的な考えは、自分の中でもイメージのような形でしかないものなのである。

 

これではどうしようもないかもしれない。

指導される

更新が2ヶ月以上あいてしまった。書くことがなかったわけではないということにしておく。とりあえず自分の続けられないダメさにほんの少しの嫌気を覚えつつ、次こそはなどと決意を新たにしてみたい。

 

さて、今回は久々の更新に関して「継続は力なり」、ということを結局は実現できていない、なんてことで書いても問題なかろうが、書きたくはないので書かない。

 

前回、1月某日に記事を投稿してから様々な変化があちらこちらで起こっている。私は普通自動二輪免許を取得すべく、前厄になる年齢にもなって再び自動車学校に通い始めた。きっかけは友人の後ろに乗ったことで、これは自らが操作せずにはいられないと感じ、大学の中にある、大学4年目だがいまだに好きになれないあの組織のカウンターに10万円を叩きつけ、入校した。

 

二輪の乗り物など自転車にしか乗ったことがなかった私にとって、教官の技術は見事である。ただ、今回は教官の指導というものについて考えてみたいと思う。前置きが長すぎである。

 

教習について、私は久方ぶりに「習っている」と感じた。予備校や大学のゼミでもあまり感じてはこなかった感覚のような気がする。これの原因を数分の浅い考えで探ってみると、真似て体を動かしているからなのではないかと感じた。講義と違うことは他にもあるかもしれないが、はじめに浮かんだ違いがこの辺りである。何かを覚えようとする際には真似るというのは大事なのかもしれない、と全然確固たる意思もないままに思う。

 

今のバイトでも何か生かせないか、まあ始業の鐘がなる頃にはこの考えも頭から吹き飛んでいるに違いない。

センター

こんなテーマで書き始めてしまった。2回も受けたアレ。鉛筆と消しゴムを人生で一番速いペースで消費し続けた時代も今は昔である。

 

 

浪人したからにはこの話題に触れなければならぬ、などと下らない考えで書き始めたが、正直当日については2年連続で試験官が同じだったことと、旧友に再会したことしか覚えていない。試験内容も覚えていない。緊張のあまり全ての記憶が飛んでしまっているのだと思う。

 

 

 

こんな短い記事で終えるのもつまらないので、もう少し関連する話題で続けよう。

 

浪人でセンターといえば、得点率での傷の舐め合いである。マンセ◯システムを見ては互いに喜んだり卑屈になって見せたりする。

 

大丈夫、きっと受かるよ。

 

なんて言いながら内心何を思っているのだろうか。

 

私さえ受かればいい。同じ大学志望ならマイナス思考にもっていけないか。他大志望なら頑張ってもらおう。

 

やった、アイツはD判定だ、さっさと諦めろ。なんでコイツは私より得点率が高いんだ。なぜだ?

 

そんな暗い思考を持った者が来週大量に生まれてしまうのだろうか。

 

 

 

 

浪人し、A判定を得て、自己ベストを逃して、第一志望に落ち、挙げ句の果てに地元の大学に進学。

 

そんな卑屈な思考を持った人間が生まれないことを心から願う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回少しだけ評価を変えてみた。あとスマホで書いてみた。スマホとキーボードで何か違いは出るのか。

就活

会社説明会インターン、選考……

これらに行くたびに気持ち悪さを覚える瞬間がある。

すべての言葉が薄っぺらく感じる瞬間がある。

こんな人生が待っているのかと逃げ出したくなる瞬間がある。

なぜこんな場にいて他の学生は平気なのだろうと思う瞬間がある。

 

 

 

以前、インターンで周囲の学生のことを「まるで就活生みたいだ」と笑ったことがある。周りからは就活の意識もないやつだと思われたかもしれない。

今まで会ったこともない親戚から「若いから考えていないのかしら」と小声で言われたことを思い出してしまった。

 

 

考えていないわけではない、と信じている。その一方で、やはりあの場で就活生の如く生きていける自信は湧いてこない。

 

 

 

 

 

短く、それでいてただの箇条書きみたいなものになってしまった。

成人

今年二十歳となる後輩たちは皆故郷へと帰っていった。これからの人生で何回成人式に想いを馳せる機会があるのだろうか。

 

同窓会。旧友たちと再会し、二十歳のそれであれば男子とは相変わらず盛り上がり、化粧を覚え誰が誰だか分からなくなった女子を特定する。

 

将来二十歳を懐かしんであの頃に戻りたいと思うことがあるのだろうか。

 

 

 

あの頃に戻りたい。こんな思いを大体の人は抱くのか、或いは過去幸せだったからこそ抱く思いなのだろうか。高校生ですら中学に戻りたいと言っている。ネット上でも一時期とある女子がそんなことを言っていたような気がする。もはや自分では中学生に戻りたいとは思わなくなっているが、幸せでなかったとも思っていない。

 

人生をやり直せるならばどこからやり直そうか。もし可能なら記憶を保ったままやり直すに限るが、そんなラノベにありがちな展開で異世界でないだけのもの、やはりファンタジーである。その上で小学生からやり直して周りからひたすら異端の目を向けられるのはどうだろうか。きっと内心で自分の化けの皮がいつ剥がされるのか恐れるのだろう。

そのやり直しの果てには何が待っているのだろうか。左京区田中に一人暮らしはできているのか。結局はこれに落ち着く程度の人生経験ということだ。